『カラマーゾフの兄弟』から考える、「瞑想」について

瞑想の間いだいていた印象はおそらく心の内に秘めていることだろう。その印象は彼にとっては貴重なものであるし、きっと、意識さえせず知らぬ間にそうした印象を彼は蓄えてゆくはずだ。

原卓也訳「カラマーゾフの兄弟」上巻 / ドストエフスキー

現代では瞑想はあまり世間に浸透していない行為だと思われる。

スマートフォンが普及し、人々は生活の中で常にスクリーンを眺めている。

(電車に乗って人間を眺めてみてほしい。スマートフォンを見ていない者の数が圧倒的に少ないことが簡単にわかるはずだ!)

だがスマートフォンのようなデジタル機器がなかった時代には、瞑想は人々の間では決して珍しい行為ではなかったはずである。

物思いにふけるような者は必然と瞑想をすることがあっただろう。  

現代でも物思いにふけるような人は依然として存在するはずだが、それはデジタル機器などの不自然なきっかけにより、その習慣を失うかまたは身に着けられていない場合が考えられる。

そんな現代だからこそ、瞑想は非常に人間にとって重要な行為であるということを、理解しておきたいのである。

瞑想とは言うが、ただ目をつぶってぼうっとしているだけでいい。

そこでは考えが浮かぶというほど明確なものではなく、引用した文章のように、印象を抱く程度のものだろう。 

だがたとえその程度のものだとしても、それは通り過ぎて消えていくようで、実は心の内に秘められており、無意識のうちに蓄えられていくのである。

そしてそれこそ本人にとって貴重な財産となり、生きていくための重要な糧として永遠に存在することだろう。

瞑想とは、人間が生きていくうえで非常に価値のあるものを生み出す行為だと私は考える。

瞑想について考えることだけでも、まったく異なる世界が見えるかもしれない。

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